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お気楽199号 裏オキラクページ

今週もようこそおいでくださいました\(~o~)/



 高橋浩子、「裏お気楽」に久々に登場でござります。振り返ると「181号(いわい号)」以来なんですね。あらあら、私ったら…。


ということで、久々だけに、パワー全開で参りますわよっ!

本日の裏テーマはずばりっ! 『氣』でござります。


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氣の研究会『氣フォーラム 2006』 in 東京国際フォーラム

魂の突入レポート!


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 はい。皆さま、ご機嫌よう。「裏お気楽」に久々に登場致します高橋浩子でござります。ずーっとひでちゃんの独壇場と化していたこの裏お気楽。たまには私にも語らせて〜ってンで、交代してもらっちゃいました♪ 皆さま、本当にお久しぶりでござります。
 
  さて、本日浩子が魂込めて語ろうとしているのは、「氣」についてです。先週の表お気楽(っていうか普通のお気楽ね)198号でもちょこっと触れたのですが、私とよーちゃんの二人で、 2月26日(日)に行われました氣の研究会主催『氣フォーラム 2006』に参加したのですが、その様子を是非お届けしたいっ! お気楽読者さまにも、知っておいていただきたいっ! ということで、魂の突撃レポートを書いております。
 
  なんでも、聞いたこと、「へぇ〜」って思ったことも、3日も経つとその8割以上忘れてしまうそうです。よくありますよね。講演やセミナーに行って、やる気満々になっても、日常生活が始まると、いつの間にかその熱はどこへやら。いつもの私に戻っているってことが…。それもすべては「忘却」のせいだったのですね。なーんだ、根性がないからじゃないんだ。
 
  しっかり記憶に残す方法はただひとつ! 「へぇ〜っと思ったことを、人に伝えること」なんだそうです。今回はめちゃくちゃタメになる話しが炸裂したので、忘れちゃってはもったいない! ええええ。もったいないお化けが出てきます。ということで、私の脳みその中に、しっかりとどまっていただくためにも、記憶を頼りに書いてみることにしました。きっと長くなると思うので、来週も続くような予感が満々…。まぁ、小さなことはおいといて、魂のレポート、参ります。 


●2006年 2月26日 東京国際フォーラムにやってきた

 今日は朝からあいにくの雨。ひと雨ごとに春が近づくとはいうけれど、まだまだ肌寒い。でも、花粉症の人にとっては、今日の雨は恵みの雨かもしれません。そういえば、まだ私、大丈夫だなぁ…。と、そのころは思っていたのですが、おととい春一番が吹いたおかげで、くしゃみ50連発とかやっちゃいましたよ。 
  本日のフォーラムの会場は東京国際フォーラム。私にとっての東京国際フォーラムは、「ミッチーのコンサートをやる場所」もしくは「バレエを観るところ」というイメージが強いのですが、今回初めて「お話しのみ」という会に参加です。だって、ミッチーは「フォーラムベイベー」って言うんだもの。いぇーい!
 
  そんなミッチーの曲を頭の中で奏でながら、エレベータに乗り込み、5階まで上がると、ご丁寧にクロークのご案内。クロークがあるとはさすがはフォーラムベイベーだ(←意味わからない)。
 
  今回、この「氣フォーラム2006」に参加できることになったのは、凄腕経営コンサルタント、日本経営教育研究所の石原明先生http://www.nihonkeiei-lab.jp/)のご縁。彼は私とメルマガを結びつけてくださった方で、お気楽一家にとっても「恩師」なのでござります(ありがとうござります!)。
 
  でも、偶然というものは面白いもので、このお話を伺う何年も前から、数年前、いやもっと前かな?、氣の研究会のドン・藤平光一氏の本を私は読んでいおりました。「いやー、世の中にはすごい人がいるもんだなぁ…」と、感心しながら読んでいたのです。そんなベースがあったので、今回のフォーラム参加は期待度満点、やる気満々でござりました。


【氣の研究会】 http://www.ki-society.com/
藤平光一氏
こちらが氣の研究会のドン そして私を唸らせた藤平光一氏でござります。


  本日のフォーラムは、午前・午後・夜間と3部構成になっています。午前中は「氣と教育/失われた心の教育を取り戻す」というテーマで、氣の研究会会長代理の藤平信一氏の講演。午後は2部構成になっていて、1部は「日常生活での氣の活用」をテーマにしたパネルディスカッション。2部は「氣の呼吸法 その他」ということで、藤平信一氏による講義と実演でした。


●「氣」っていうとさぁ…

 みなさま「氣」と聞くと、何を真っ先に思い浮かべますか? 多くのかたが「えいっ」ってやると大の大人がバタバタと倒れていくシーンを思い浮かべるのでは?と思います。「氣」っていうと、「かめはめ波」のような強いエネルギーが出るもんだとうイメージがすでにできちゃっているような気がします。あるいは、ナイフを使わないで手術をしたり、妙な動きをしたりする人も多いので、「なんだかよくわからないけど、気持ちが悪いもの」と思ったりもします。
  
  そして、氣を出せる人は、特別な修行をした人だけ。仙人のような暮らしをして、仙人のような姿にならないと氣なんか出せるもんじゃない。そんな風にも感じているのではないかな、と思います。


でも、そーーーじゃないんですねーーー。
 

氣ってやつはもっと身近なものなんですよ。そして「人であれば誰でも、出そうと思えば出せる」ものなんだそうです。私も出せるし、あなたも出せる。出そうと思えば誰でも出せる。でも、目に見えないし、出し方をちゃんと教えてもらっていないので、こんな話をすると「うっそー」って思ってしまうのですね。うそじゃないもーん。

 唐突ですが、お腹が痛いとき、みなさんはどうしますか? お腹をさすったり、手を当てたりしますよね。決して「ああ、お腹が痛い」といいながら、頭をさすったりはいたしません。そんなヤツがいたら見てみたい。と思うくらい、痛いところに手を当てるということを、私たちは自然な行為としてやってますね。これぞ「氣」を感じているのでござりますよ。手から出る氣を患部に当てることで、痛みや症状がやわらぐのを、私たちのからだは知っているのですね。だから無意識のうちにそういう行動をしちゃうのです。
  
  あるいは、相手がぶとうとしたしたときはどうしますか? ぶたれるままになっている人はあまりいなくて、反射的によけちゃいますよね。あたるか当たらないかは別にして、とりあえず無意識のうちによけちゃう。でも、相手の腕の動きを見てからよけるわけではないですよね。相手の動く気配で「あ、ぶたれるぅ」と感じることができるから、とっさにからだが動いちゃうのです。反射神経がたいしてよろしくない私だってそうなのですから、きびきび動く人は、もっとすごいんでしょうね。これも私たちは「氣」を感じているからこそ、できることなんだそうです。


 まわりを見舞わせば「氣」のつく言葉っもたくさんあります。元気、勇気、気分、気持ち、空気、人気、病気、やる気、負けん気、気合い、気色、色気、熱気、寒気、気圧、気温、気配り、気遣い、…、そろそろ尽きてきたかしら…、忘れちゃならない「お気楽」も「気」の入った言葉でござります。
 
  こんなにいろんな言葉に「気」を使っているのは、昔の人にとって、「気」というものはもっともっと身近なものだったのでしょう。
  そう考えると、もっとちゃんと「氣」というものを知りたいなぁ…と、思ったのでござります。


●氣と気 

 賢い人は、「気」と「氣」と二種類の漢字が出てきていることにお気づきでしょう。今は「気」と書くのが普通ですし、「氣」と書くととたんに「おどろおどろしいもの」と感じてしまうのは、私だけでしょうか。でも、「気」と書くより「氣」と書いた方が、パワーがあるそうなんです。
 
  「气」の中の文字に注目です。「気」は「〆」ですよね。そこでせっかくのパワーが停滞しちゃう。でも「氣」は「米」です。お米って日本人にとってなくてはならない大事な栄養源だし、漢字を見ても四方八方に広がりがありますよね。氣ものびのびと拡がっていくに違いない…。そう考えて、氣の研究会代表の藤平光一氏は統一して「氣」という漢字を使っています。そういわれれば、なるほど納得ですよね。先ほどはわかりやすいように「気」を使いましたが、これから先は全部「氣」で行くことに致します。


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■一時間目:「氣と教育/失われた心の教育を取り戻す
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一時間目じゃないって。すでにそこからちょっとした勘違いをしておりますが、小さなコトは気にしない。気にしない。

午前の部のお話しくださったのは、藤平信一氏。氣の研究会の会長代理であり、藤平光一氏の息子さんです。なんと、53歳のときのお子さんなんだそうです。やるな、光一(すいません)。私と母はちょうど30歳年が離れているんですが、それに加えて23歳もの年の差があるんですから、ちょっとリアルに想像ができません。40歳になったら93歳…。あ、今、くらっとしちゃいました。「物心ついたときには、すでに父の人格はできあがっていて…」とおっしゃってましたが、そりゃそうだと、大いに納得したものです。
信一氏は現在32歳。父光一氏は86歳ですが、まだまだ立派な現役でいらっしゃるそうです。すごいですね。

さて、講義が始まって最初の「目から鱗が落ちたことば」がこれ。


『物事は本質に近づけば近づくほど、

異業種に活用できる』


ということです。藤平光一氏は、柔道や合氣道の達人ではありましたが、野球や相撲ができるわけではありません。でも、プロ野球8球団を指導し、高見山や千代の富士など、名を残したそうそうたる力士を指導し、有名なプロゴルファーの方が何人も、藤平氏を「師匠!」と仰いでいるそうです。スポーツ界だけでなく、その影響力は芸術や経営面にも及んでいます。

でも、『物事は本質に近づけば近づくほど、異業種に活用できる』という言葉を聞いたとき、「本当にその通りだ!」と、細胞レベルで納得しました。私も常々、トップにいる人は、違う分野の人とでも、すぐに意見も合うし、お互い対等に話し合える。しかも本質の部分がわかっているので、話がすごくかみ合うよねーっと、思っていたのです。話しを聞いていても、対談を読んでいて、それは伝わってきます。その道を究めた人にしか見えない何かを観ているからこそ、話しが通じちゃうんでしょう。その答えをここで聞いたような気がしました。

本質はみんな、同じところにあるのね。


●「教育」とは一体なんでしょう?

  本日のテーマに入ります。信一氏は私たちに尋ねます。
 

「教育とは一体、何でしょうか?」


  「教えて育てることー」と、胸の中で小さな声でつぶやきましたが、その直後、「まんまやないけー」と、自分で突っ込んでおきました。はい。すいません。
 
  わたしたちは2つの大きな誤解をしていると、信一氏は指摘します。ひとつは、教えるというのは、教える人から教わる方へ「一方通行」で行う知識の伝達だと「思いこんでいる」ということです。先生が一方的に生徒に話す。たまに討論形式の授業もありましたが、たいていは先生が教科書を読んで、やり方や理解の仕方を一方的に話し、生徒たちはおとなしくそれを聞いて、黙々とノートを取る。そいういうスタイルが授業であり、教え、教わることだとフツーに思っていますし、私もそう思っていました。そして、それを行うことが教育なのだと、なんとなく思っていたものです。

  でも、そもそも、そこが違うのです。


教育とは、双方向で行うもの。

すなわち、
「コミュニケーション」なのだ!
 
これが氣の研究会が考える教育の定義です。


  コミュニケーションを取るには、相手の言うことを受け入れることが大切です。でも、世の中には、「この人の言うことなら聞けるけど、この人には言われたくないよなー」と思う人もいるものです。多くの人は、親御さんや先生、ご主人や奥様など、そばにいる人の言葉を、なかなか素直に聞けないのではないでしょうか。高橋家はびっくりするほど聞いちゃいますけどね。
 
  信一氏もお母さんの言うことを、なかなか受け入れ亡かったと言います。お母さんは気性の激しい人で、「白か黒か」ハッキリさせるタイプの女性なんだそうです。本人曰く「明治の女性に育てられたからだ」とおっしゃっているようですが、それだけが原因ではないと、どうやら息子さんは思っているようですが、お父さんの言うことは受け入れるのに、不思議とお母さんの言うことには反発してしまう。まぁ、愛情の裏返しなのでしょうが、そういう親子関係もほほえましいものですね。
 
  で、こんなことをおっしゃっていました。
  「母は夜更かしするんです。でも、僕には「早く寝なさい」とか「遅くまで起きてちゃダメ」って言うんです。説得力ないですよねー」
 
おっしゃるとおりです。でも、耳がちょっと痛いです。
人は、自分がやってないことを、いくら言ってきかせても、脳みそまで届きません。耳の中に入れただけで、あとはすっかり出て行ってしまいます。実践を伴わない「見聞」だけの知識は、どうしても説得力に欠けるので、脳に届かないんですよね。でもまぁ、私も良いと思ったことはやってみる前に人にすぐ言う方なので、聞いている方も、その場は一生懸命聴いてくれてていても、すぐに出ちゃうんでしょうね。なるほどー。

「うるさいなぁ」と思われないようにするためには、「まず、自分でやってから、相手に伝えること」が大切だと、信一氏は言います。そして相手をよく知ること。想像ではなく「知る」こと。世間ではよく「あの人の考えてることなんか、お見通しよ」と言う人がいますが、大抵はその人の勝手な想像であることが多いようです。そりゃそうですよね。人のことが簡単にわかったら、誰も苦労は致しません。

相手をちゃんと知るためには、どうしたらいいでしょうか?
会話する? 話を聞く。相談にのる。相手を裏切らない。いろいろ意見が出ましたが、どれも正解です。しかし、その軸になることは、ただひとつ。


『相手に心を向ける』ことなのです。
 

「心」とはすなわち「氣」。相手に氣を向けることが、相手を知ることの大きな一歩になる。これが教育の真の姿なのだと、藤平氏は考えています。ここでやっと「氣」と「教育」がつながりました。なるほど、なんとなくわかります。

でも、「心をうんぬん」というと、ああ、正当派の道徳的な話しだねと感じ、「氣をうんぬん」というと、急に神秘的でちょっと怖いようなイメージが湧いてくるのはどうしてなのでしょう? 氣についていろいろ本を読んだり、タメしたりしたことがある私でさえ、ちりっとそう思うのですから、他の人はなおいっそうそう思うのではないでしょうか? なんて、瞬間的に思ったり致しました。

でも、そんな思いは、ステージ上の実験を見て、そして実際にやってみて吹っ飛びました。えっ、これが氣なんですね。氣ってこんなにも簡単に出せるんですね。そして、誰でもできちゃうんですね。「しぇぇ〜」という感じでござりました。

では、ステージでは、どんなことが繰り広げられていたかを、簡単にご説明しましょう。すごく簡単なことなんです。

まず、「いやだなぁ…」と思って手を出します。それを前に立つ人が「ぐっ」と押します。すると、簡単に後ろに動きます。すごく不安定です。
動かないように力を入れてみると、からだは動かなくても、腕に「ぐっ」と力が入り、動かないように頑張ってしまいます。体制は不自然です。その状態でふっと前に押すと、いとも簡単に動いてしまいます。力を入れても人はやっぱり不安定なのです。


よろよろ…
いやいややると、ちょっと押しただけでも、よろよろ…。よわっ


今度は「あれを見てください!」というように、対象物をハッキリ見て指をさします。その状態で、先ほどと同じように、ぐっと後ろに押してみます。すると、びくともしないのです。なんという安定感。か弱き女性が指をさし、体格のいい信一氏がぐーっと押しても動きません。

たったそれだけのことなのに…という感じですが、この実験で物語っているのは、「心の使い方によって、カラダの現れ方が違う」ということです。


「心を向けることで、安定する」

「心をハッキリ使う」

 

これは、からだの反応だけではありません。ビジネスでもまったく同じです。なんとくやってることは、何となくの結果しか生まれません。でも、ハッキリと心を向けて、一生懸命やったことは、ちゃんと結果がついてきます。

「心の使い方」------------------そういえば、そんなことを、教えてもらったことはなかったように思います。


●どんな握手、してますか?

では、今度は「握手」をしてみます。最近は日本人でもビジネスシーンで握手をする機会が多くなりましたね。私もすぐ握手しちゃいます。

握手といってもいろいろあります。氣の入らない握手、氣の抜けた握手、氣を遮断する握手、氣もそぞろな握手…。どれもものすごく「感じ悪っ」と言いたくなるような握手です。

でも、きちんと相手を見て、しっかりと心を込めてする「氣の入った握手」のすがすがしいこと。こうやって目の当たりにしていると、普段いかに氣を使ってないかが、身にしみますね。

そして、氣の入ったキレイな握手をしているときは、不意に押されてもびくともしません。「握手タイム」といいうものがあり、20人くらいの人と握手をしたのですが、ちゃんとがっちり握手ができるんですね。不思議な感じがしました。相手をちゃんと見て、心を向けるだけで、こんなにも違うのか! この事実はちょっと衝撃でした。

手は握手をしていても、氣がそっぽを向いていれば、それはからだと心が別々の行動を取っていることになります。これを「心身分離」と言います。文字のまんまですね。そして、心身分離は、不安定でもあり、相手にも良い印象を与えることができません。


●心身分離と心身一如

でも、改めて振り返ってみると、私たちの日常生活の中で、いかに心身分離が多いことか。

「ただいま」って帰って来た家族に対して、口では「おかえり。お疲れ様」と言っていても、別のことをしていて振り向きもしないとか。
「書類持ってきました」「あ。ありがとう」と、ちっともありがたそうじゃなかたりとか。「あのー」って声をかけられても、振り返らずに「何か?」って聞いたり、顔だけ振り向いたり…。特にパソコンを使っている時に声をかけられると、目はモニタ、手はキーボードの上を動かしながら、「なに?」と返事をしたりする。これぞほれぼれするような心身分離状態なのでしょう。

心身分離は疲れるし、不安定です。この状態が当たり前のように続いているからこそ、現代はストレス社会だとか言われるんでしょうね。

心身分離の対極にあるもの。心とからだをひとつにする。これを「心身一如(しんしんいちにょ)」と言います。

この「心身一如」こそ、氣の交流のはじまりであり、信頼関係を築くための、最初の一歩となるのです。

こころとからだの反応を同じにするのです。握手をするときには、他ののことは考えずに、心を込めて握手をする。名刺を渡すときには、渡すことだけを考える。

大事なことだなぁと、頭ではわかっていても、なかなか実践できるものではありませんね。人は「心身一如」と「心身分離」の状態を日々繰り返しています。

たとえば、本を読んでいていても、文字ばかり追ってしまい、内容がちっとも頭に入ってこないとき。階段でけつまずくとき。運転しながら考え事をするとか、朝起きられない、なんていうのも「心身分離」の現れだそうです。

朝、起きなきゃ…と思うけれども、うーん、起きられない。
なんど経験したことでしょう。これは「寝る前にハッキリと心を使っていない」ことが大きな原因だとか。寝る前にちゃんと明日の朝のことに氣を向けて「明日は7時に起きるぞー!」と、ハッキリと心を使ってから眠りにつけば、ちゃんと朝は起きられるようになるそうです。そう言われれば、出張で「明日は何時の新幹線に乗るから、何時に起きて、何時に家を出て…」と、キレイにシミュレーションできていると、不思議としゃっきりと目が覚めるもの。知らず知らずに氣を使えていたんですね。へー。なるほどねー。

心身分離と心身一如。この2つの状態があることがわかっただでも、「どうすればいいか」がいろいろ見えてきます。

品物を渡すとき。返事をするとき。握手はもちろん、「ありがとう」と言うとき、どうすればいいかなど、いろんなことに「氣付き」ますね。

また、それに氣づくことによって、「相手が心身分離にあるかどうか」も、わかるようになります。「はいっ!」といい返事が返ってきたのに、こちらが言ってることがちっともわかってなかった…なんて経験をお持ちの方は、ものすごくたくさんいるでしょうけれど、それは相手が「心身分離」だったことを、こっちが見抜けなかったということなのですね。
 

「氣付かないということは、

心の状態がわからないということです。

氣付かないことは、ないのと同じなんです」


なんだか、ものすごく納得できた。


●最近の若いもんは…

いつの時代も「最近のわかいもんは…」という文句を良く聞きます。私も言われましたし、いつの間にか言っているのかもしれません。

最近の若いもんは、人の言うことを理解しない。理解力がない。
言ったことしかやらない。言われないと動かない…
誰でも心当たりがあると思います。

でも、彼らは決して能力がないわけではないのです。ただ、「氣を向け方」を知らないだけなのです。そもそも氣を向けるってどんなことなのかすら知らないし、氣が何かもわかってません。

氣を向けるには、練習が必要です。でも、ちょっと訓練するだけで、みんな驚くほど能力を発揮できるようになるんです。そりゃそうですよね、気が通えば楽しくなりますから。

氣の存在を知ることは、人類全員にとって大切なことですが、特に教育者と言われる立場にある人や、部下を持つ全ての管理者層から最初に学ぶべきなんだろうなぁと思いました。


●話すとき、どこ見てますか?

心身一如。相手に心を向けることが大切なことは、よくわかりました。
でも、相手をじぃーっと見れば見るほどいいのでしょうか?

相手と話すときは、どこを見ますか? 「ちゃんと目を見て話しなさい」と、私たちは教わってきたように思います。あ、面接の時や仕事では、「目はきつすぎるので、ネクタイのあたりを見るように」って教えられましたね。でも、方法は習っても、「それがなぜ?」なのまでは、教わってはおりません。

目は心の窓と言います。確かに目を見ると、相手の状況がよくわかりますね。びびっているのか、迷っているのか、楽しんでいるのか、そうでもないのか。

でも、目だけをじぃーーーと見つめてしまうと、目だけしか見えなくなってしまいます。目を見るあまり、口や首など、他の所が一切目に入らなくなるのです。

じーっと見つめられた方はたまりません。間が持たないし、身の置き所がないように感じてしまいます。恋人同士ならいいかも…とか言いますが、たとえ好きな人であっても、ちょっともじもじしちゃいますよね。

こうして、一点をじーっとみつめると、見る方も見つめられた方も疲れてしまいます。疲れることを人は本能的にやらないので、目をそらしたり、目を見ないようにするのです。

そうではなくて、鼻のあたりをなんとなく「ぽやん」と見ます。そうすると不思議なことに、顔全体が無理なく見えるのです。無理なく全体が見えると、相手がどんな氣持ちなのかわかるようになります。自然に相手に氣を向けることができるからです。

この「自然に全体が見える」状態を「集中」と言います。私たち「人の目をじっと見る」ようなことを集中と言っていますが、それは集中ではなく「執着」なんだそうです。「集中すると疲れるよ」って、私もよく言いますし「そんなに集中力は持続しないよ」とも言いますね。でも、それは間違った集中なのかもしれません。


●教育についてのもうひとつの誤解

 普段の何気ない行動の中にも、「氣」というものが密接に関係していることがわかってくると、改めて「氣って大事だなぁ…」と、しみじみ思います。
 
  さて、講演の最初に「教育についてふたつの大きな誤解をしている」と藤平氏は言いました。間が長くなってしまいましたが、ひとつは「教育とは一方通行で教えること」だと思いこんでいること。そしてもうひとつは「教育は学校の先生や習い事の先生など、特別な人がやっていること」だと思っていることです。
 
  そういえばそうです。「教育に携わっていますか?」と聞かれたら、「別に…」ともじもじしてしまいますよね。「はいっ!」と答えられるのは、学校の先生や塾の先生、武道の先生やピアノの先生など、そういうご職業に就いていらっしゃる方でしょう。
 

でも、そうじゃなんですね。
世の中の人みーーーんなが「教育者」なのです。


  だって、お子さんがいれば、毎日お子さんを教育しているわけですし、部下がいれば何らかの指導はしますよね。そう考えれば「人類皆教育者」であり「365日が教育の日」ということにもなります。たとえ子供同士であったとしても、ゲームの上手な子は、できない子に教えるし、サッカーの上手な子はできない子の指導をすることもありますよね。そしてみんな教え教えられて、育っていくのです。
 
  そうかー。だったら私も立派な教育者なんだー。
  そう考えると、やたらなことはできないというか、もっとしゃんとしなければ!と、思えてくるから不思議です。一部の先生という職業の人にまかせりゃいいやと思っているから、無責任だったり人のせいにもしがちですが、自分もその一人だと思えば、態度も姿勢も変わるものです。言葉の意味は正しく理解しておかないと怖いなぁ…と、つくづく思いました。

 藤平氏は続けます。
 

「教育とは、教え、はぐくむことです」


 「はぐくむ」…なんだか久しぶりに聴いた気がします。でも、とってもいい言葉ですね。それでは、2つの言葉の意味を正しく理解していき…たいところですが、ふと気付ば結構長くなってしまいましたね。この後のお話しはかなり濃く、がーっと書いてみたら、これまた相当な長さ。ここらでいったん区切った方が良さそうです。
 
  ということで、この続きはまた来週のお楽しみということに、させていただきたいと思います。
 
  それでは、どちら様も、ごきげんよー。


ε=┏( ・_・)┛┏( ・_・)┛ε=┏( ・_・)┛┏( ・_・)┛ε=┏(・_・)┛


■今週の間違い大杉

ひでがお送りする、前回お気楽198号の素の間違いを自ら告白し、白日の元にさらけ出してしまうコーナー。それが、「今週の間違い大杉」

では、今週もお楽しみくださいませ。


◆して、Kirk Franklinという人は、今アメリカで人気のあるゴスペルアーチストだよって、

「して」→「そして」

「そ」がないというのは珍しいパターンだなあ。


◆レイモンドが教えてくれたたので、

「くれたたので」→「くれたので」


◆なんて「生返事」や「うすらぼけ挨拶」をしていることが多いいのでしょう!

「多いいのでしょう」→「多いのでしょう」

たしかに、「い」が多いよ。


◆オリジナルスクラップブックを作っていたなんて記憶を持つ方もたくさんいらしゃると思います。

「いらしゃる」→「いらっしゃる」

これ、よく見つかりましたね。全然わからなかったですよ。


◆このソフトを作っ洛西一周(らくさいいっしゅう)様。天才ですね。

「ソフトを作っ」→「ソフトを作った」

私たちは、素の間違いの天才ですね。


では今週も。

どうも申し訳ございませんでした。


さて、みなさま。お気楽199号はいかがでしたでしょうか?

楽しんでいただけたのならば、こんなにうれしいことはありません。

来週も、お気楽テイスト満載でお送りしたいと思います。どうか、楽しみに待っていてくださいね。


それでは、来週の木曜日までごきげんよう。

 


 
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